「筏流しと筏道」からたどる、中野島の歴史

こんにちは、タンジです^^

今回は、多摩区中野島にある看板に書かれた、

「筏流しと筏道(いかだながしといかだみち)」

についての調査レポートです🔍

中野島の街歩きをした際、目的の一つでもあったこの歴史スポット。
実物を見たうえで、看板に書かれている内容について深掘りしてみました♪

街歩き記事はこちら🔽

「中野島」という地名の由来

筏道の話に入る前に、まずは「中野島」という地名についても少し触れておきたいと思います。

中野島はその名のとおり、多摩川の流れに挟まれた「中の島」のような土地に形成された村に由来するとされています。(”野”は当て字だそうです)

かつてこのあたりは、多摩川の本流や支流に挟まれた中洲でした。

天正17~18年(1589~1590年)起きた洪水により、多摩川の本流が元の位置から大きく北側へ移動。
もともとあった中洲にさらに土が堆積してより大きな形になり、そこを開墾して人が住むようになりました。
その当時は「中(野)島新田」(※)と呼ばれていましたが、17世紀中ごろに「中野島村」と呼ばれるようになったそうです。

現在も近くに多摩川が流れる中野島地区ですが、その起こり自体が多摩川と深い関わりがあったのですね。

ちなみに、公称としては「中野島村」とされていたこの地ですが、江戸時代中期までは「満(万)蔵島(まんぞうじま)村」(※)とも呼ばれていました。
これは村の開祖とされている小林満(万)蔵法印(のちに田村に改姓)(※)という修験者の名をとって名づけられたのだそうです。

(※…資料によって表記が異なるものについて、()で補足しています)

その後の地名に関する歴史を挙げると、以下のようになっています。

・明治8年(1875年)
 多摩郡から橘樹郡に移管


・明治22年(1889年)
 市制町村制施行の際、稲田村の大字となる
 (※稲田村は、菅・中野島・登戸・宿河原・堰の5村が統合して成立)

・昭和2年(1927年)
 南部鉄道(現在のJR南武線)が延伸し、中野島駅ができる

・昭和7年(1932年)
 稲田村が町制施行、稲田町中野島となる

・昭和11年(1938年)
 稲田町が川崎市に編入し、川崎市中野島になる


・昭和47年(1972年)
 川崎市が区制施行、多摩区が誕生。川崎市多摩区中野島になる

・平成3年(1991年)
 住居表示実施。中野島1~6丁目が起立する。
 (現在は、”丁目”がつかない中野島と、中野島1~6丁目が存在しています)

筏流しと筏道

多摩川と中野島のつながりは、地名だけではありません。

それが、今回のテーマである「筏流し」です。

こちらは、中野島6丁目にある
「筏流し(いかだながし)と筏道(いかだみち)」
について書かれた看板と、馬頭観音像です。

この看板があるすぐ横の道が、川崎市に現存する唯一の「筏道」であることが書かれています。

看板を読んでみたものの、「筏流し」がどんなものかイメージできなかったので、調べてみることにしました。

「筏流し」とは

「筏流し」は、江戸時代から昭和初期まで多摩川で行われていた、木材の運搬方法のことです。

江戸に幕府が開かれ、人口が増えていくと、住宅などに使う木材が大量に必要となりました。
その調達先として選ばれたのが、江戸に近くて良質な木材が豊富だった奥多摩周辺地域。

奥多摩周辺の山で切り出した木材を、多摩川の流れを利用して大量に下流へ運ぶ方法として考えられたのが、「筏流し」でした。

山から立木を切り倒して丸太にし、長さ約14メートルの丸太を80本ほど藤づるで平らに組み、幅3m程の筏をつくります。
その筏を3枚ほど重ねたものをひとりの筏乗りが操縦し、六郷の河口付近まで運んでいました。

自然相手の危険が伴う仕事だったからだと思いますが、
川を下る際、筏乗りは単独で働くのではなく、4〜5人一組で行動を共にしていたそうです。

筏流しの最盛期は、徳川家康が江戸を政治の中心とした都市づくりを始めた時期だったそうで、慶応3年(1867年)には、年間の筏の出荷数が8,140枚にも達したといいます。

筏乗りの帰り道=筏道

筏乗りたちの住まいは、木材が採れる奥多摩周辺地域に集中していました。

六郷まで筏を届けた筏乗りたちが、奥多摩地域へと帰る際に使われた道が、「筏道」だったのです。

六郷から奥多摩までは、およそ65㎞。
筏乗りたちは、その道のりを二日間かけて歩き、家へと帰っていきました。

資料と看板によれば、この看板の横を通っている細い道(道路を挟んで看板の向かいにある「久美乃屋酒店」というお店の裏側から、中野島キリスト教会、サミットの横を通って二ヶ領用水へとつながっています)が、川崎市に現存する唯一の筏道なのだそうです。

現在の筏道はこんな感じ。

(看板の横から、奥多摩方面に向かう道を撮影しました)

かつて数多くの筏乗りたちが、家を目指して歩いて行ったであろう、この道。

看板の横に立って道の先を眺めていたら、なんだかしみじみと感慨深い気持ちになりました。

まとめ

というわけで今回は、中野島にある「筏道」と、「筏流し」にまつわる歴史をたどってみました。

調べてみて感じたのは、「中野島」という地名も「筏道」も、多摩川との関わりが非常に深いものだということ。

そして、この地で人々の暮らしを築き、発展させようとしてきた人たちの存在も、確かに感じ取ることができました。

普段なんとなく目にしてきた地名やなにげなく通り過ぎてしまうような道でも、その背景にある歴史を知ると、なんだか見方や感じ方が変わりますよね。

中野島を訪れた際には、ぜひこの筏道を歩いてみてください^^

本日もお読みいただき、ありがとうございました!

中野島での暮らしが気になった方へ

多摩川の流れに形作られ、長い歴史の中で街として育まれてきた中野島。

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【参考文献】

  • 「川崎地名辞典 下」 日本地名研究所編 川崎市出版 2004
  • 「川崎の町名 改訂版」 日本地名研究所著/編 川崎市出版 2024
  • 「中野島のこんなこと知っていますか」 田村弘志著・出版 2024

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