地名から紐解く元住吉の歴史~木月~

みなさんこんにちは、タンジです^^

これまで元住吉のいろんな場所を歩き、歴史に触れるなかで、

「元住吉にある地名のことを詳しく調べてみたい!」

と思うようになっていたため、今回コチラのシリーズをスタートさせていただくことにしました!

第一弾となる今回は、元住吉駅周辺に広がる「木月」という名のつく地区について調べてみました💡

「木月」という地名の由来

現在元住吉駅周辺で「木月」がつく地名は、木月1~4丁目、木月住吉町、木月伊勢町、木月祇園町、木月大町の5つ。

ここは、明治初期に存在した「橘樹郡木月村(たちばなぐんきづきむら)」にほぼほぼ相当している地区なのだとか。

この地の歴史は古く、小田原北条氏のころには北条市の管轄下にあり、「木月郷」と呼ばれていたそうです。

そもそも地名に「木月」という名前が使われた理由は分かっていません。

ですが、川崎地名辞典には

・島根県に同じく「キヅキ」という読み方をする地域があり(漢字は「杵築」)、ここが海岸三角州低地を築き固められた場所だと考えられる

・元住吉の木月地区も、もともとは多摩川と矢上川によって作られた低湿地であり、そこを造成して耕地と集落が築かれたと想定される

ということを踏まえ、「つき固める、築く」ということばから来ているのでは?という説が記載されています。

「木月」の歴史

かつてこの地は水田地帯で、明治期までは「木月十石」を誇る地域だったのだとか。

農業のかたわら縄・俵づくりや紙すきなども行われ、中でも素麺が特産品として有名だったようです。(江戸にも出荷されていたらしいですよ!)

そんな木月地区の風景が変わり始めたのは、大正15年のこと。

東急東横線元住吉駅の開設に伴い、多くの田畑が買収され、埋め立てられたのを皮切りに、昭和の時代に入ってからは駅周辺がにぎわうようになり、東西に商店街ができ、宅地化が進んでいきました。

ちなみにそれ以前は、現在の駅周辺よりも木月4丁目にある妙海寺周辺の方が発展していたんだそうです。

現在の木月地区の原型は、このころに形作られたんでしょうかね。

ちなみに元住吉駅の歴史についてのブログでも書きましたが、

木月村は明治22年に住吉村・今井村・市ノ坪村・苅宿村・北加瀬村と合併して住吉村になり、

大正14年には中原村と合併して中原町になり、

昭和8年に中原町が川崎市に編入したことで「川崎市木月」となりました。

そして、昭和15年の耕地整理の際に木月伊勢町、木月大町、木月祇園町という町名ができ、昭和17年に木月住吉町が発足。

その当時の名前が現在にも引き継がれています。

☆元住吉駅の歴史についてのブログはコチラをどうぞ!→

それぞれの町名の由来については、長くなりそうなのでまた別の機会にお伝えしたいと思います。

本日もお読みいただき、ありがとうございました♪

【参考文献】

・日本地名研究所/編、「川崎の町名」、川崎市、1991

・日本地名研究所/編、「川崎地名辞典 上」、川崎市、2004