こんにちは、タンジです^^
今回は、お久しぶりの地名シリーズです。
とりあげる地域は、
苅宿
でございます!
苅宿って、どのあたりにあるの?
苅宿を地図で調べてみると、このような形になっています🔽
縦に長いひし形、という感じですね。
中原区の中では南東に位置し、市ノ坪、木月住吉町、西加瀬、大倉町と接しています。
元住吉駅と平間駅の間にあり、東急東横線・目黒線とJR南武線の3路線の使い分けが可能な町です。
苅宿の地名について
現在の苅宿は、江戸時代の「苅宿村」にあたる地域です。
「苅宿」という地名の由来についてはいくつかの説があり、有力なものとしては以下の説が挙げられています。
・元は大野村という地名だったが、平将門がこの村に一宿したことから「かりやど」という村名に変わった
・古い街道の正規の宿と宿の間にある、仮の宿を提供する地域だったことから、「かりやど」という地名が付けられた
| ※「かりやど」という地名は全国に30カ所以上あるが、共通点として ①古街道にある ②川の渡し場が近い というものがある。中原区苅宿も、古い鎌倉道が多摩川の平間の渡しにかかる手前に位置するため、同様の理由で名づけられた可能性が考えられるとのこと。 |
現在の「苅宿」という地名ができるまで
かつての「苅宿村」が現在の「苅宿」になるまでの流れを年表にすると、次のようになります。
10世紀前半(天慶年間)
「風土記稿」に、平将門がこの地に仮泊したという伝承が載せられている。
1559年(永禄2年)
「小田原衆所領役帳」に、「鹿島田借宿」との表記がある。当時は鹿島田の枝郷だったと考えられる。
17世紀半ば(正保年間)
「武蔵田園簿」には「苅宿村」と表記されている。
1874年(明治7年)
大区小区制が施行。4大区7小区苅宿村となる。
1878年(明治11年)
郡区町村編成法施行。橘樹郡苅宿村となる。
1889年(明治22年)
市制町村制施行に伴い、今井村、市ノ坪村、苅宿村、木月村、井田村、北加瀬村が合併し、住吉村ができる。この時、「苅宿」は大字となる。
1925年(大正14年)
中原村と住吉村が合併し、中原町が誕生。その大字として使われるようになる。
1933年(昭和8年)
中原町が川崎市に編入し、中原町苅宿から、川崎市苅宿となる。
1972年(昭和47年)
川崎市が区制施行。中原区が誕生し、川崎市中原区苅宿という地名になる。
地域の様子の移り変わり
町の様子について調べてみると、次のような変化が記録されていました。
江戸〜昭和初期:農村時代
- 水田・畑が広がる農村で、紙漉きも行われていた
- 1887年(明治20年)ごろから梨や桃の植え付けが始まる。昭和初期には野菜の栽培も盛んに行われていた
昭和10〜20年代:工場地帯へ
- 1935年(昭和10年)頃から苅宿南部で大工場用地の買収が始まり、農地が半分以下に減少
- 1940年(昭和15年)には三菱重工・荏原製作所などの工場が建ち並び、その周囲に住宅や商店が建ちはじめる
- 1945年:川崎大空襲で被害を受ける
昭和30年代以降~現在:住宅地へ
1956年(昭和31年)以降、急速に住宅建設が進み、住宅街の色が濃くなっていきました。
南部には大規模集合住宅も建てられていますが、今でも畑や緑豊かな場所が数多く残され、落ち着いた街並みとなっています。
まとめ
初めて「苅宿」という地名を聞いた時、
「”苅”という文字が使われてるということは、たくさんの植物があって、それを刈り取っていた地域なのかな?」
という印象を持っていた私ですが、今回地名の由来や地域の移り変わりについて調べてみて、思っていたよりも歴史が深い地名だったのだな、という感想を抱きました。
元住吉駅と平間駅のちょうど間辺りにある地域ということも分かったので、両方の駅からのルートを歩いてみる企画もやってみたいなと思いました。
実は福街不動産ともゆかりの深いこの地域。
どんなつながりがあるのか気になる方は、ぜひ福街不動産スタッフに聞いてみてくださいね♪
【参考文献・URL等】
・「川崎地名辞典 上」、日本地名研究所編、川崎市、2004
・「川崎の町名 改訂版」、日本地名研究所著、川崎市出版、2024
