こんにちは、タンジです^^
お久しぶりのマンションストーリーズ、今回取り上げるのは「市ノ坪住宅」です。

1974年(昭和49年)3月に竣工した、総戸数600戸の大規模マンションである市ノ坪住宅。
このマンションが建つ前、ここは一体どのような場所だったのでしょうか?
工場と寮が立ち並んでいたエリア
地図で当時の様子を調べてみたところ、現在の市ノ坪住宅の敷地には「日立多摩工場」という工場があったことがわかりました。
周辺エリアには、この工場以外にも
・富士合成株式会社川崎工場
・株式会社京浜精機製作所
・日本建設工業株式会社川崎工場
など、工場が複数存在していたことが伺えます。
橘高校の横須賀線を挟んだ西側、現在は多数のマンションが建っている場所も、かつては工場でした。
地図によると、工場が多く立ち並ぶこのエリアの中でも、「日立多摩工場」はとりわけ大きな工場だったことがわかります。
そして、工場と同じくらい目に入るのが「寮」の存在です。
日立多摩工場の敷地内にも「恒和寮(日立多摩工場独身寮)」がありますし、日本電気株式会社市ノ坪寮、日本鋼管平間寮など、工場で働く人たちのために用意されたと思われる寮が点在していました。
また、現在橘高校のすぐ西側に建っているマンション「パークスクエア武蔵小杉」のあたりには日本電気株式会社多摩川女子学園、その南側に日本電気株式会社若葉寮、女子独身寮、との記載があります。
橘高校は、校舎は建て替えられているものの、敷地は当時と同じ場所に所在していることがわかります。
市ノ坪住宅の府中街道を挟んだ向かい側、現在のABCハウジング新川崎住宅公園場がある所には、
「三菱自動車工業株式会社健康保険組合平間会館」がありました。
敷地内にはテニスコートやグラウンドも併設されていた様子。
工場で働く人たちが利用する場だったのかもしれません。
当時の地図を見ると、このあたりは学校・工場・寮・数多くの個人宅が混在する、活気のあるエリアだったことが想像できます。
市ノ坪住宅が建てられた頃のできごと
市ノ坪住宅が建てられたのは、1974年(昭和49年)3月のこと。
この年はちょうど川崎市制50周年の年。
中原市民館や中原図書館新館も完成し、地域に大きな変化が訪れた時期でした。
そのほか、このころの川崎市に関連する出来事としては、
- 1972(昭和47)年 政令指定都市になり、中原区が誕生する
- 1973(昭和48)年 市の人口が 100万人を突破
- 1975(昭和50)年 10月6日、米陸軍出版センターとして使われていた土地が返還される (※元住吉マンションが建てられた年でもあります)
- 1978(昭和53)年 南武線の高架工事がはじまる(武蔵小杉~第3京浜間)
などがあげられます。
現在の市ノ坪住宅

建設から51年の時を経た市ノ坪住宅。
現在の市ノ坪住宅の周辺は、多くの個人宅とマンション、そして住宅展示場と、より「住」の色が濃い街へと変化を遂げました。
そして、現在の市ノ坪住宅の状況はというと
600戸規模の大規模マンションですが、管理組合による自主管理が行われ、日勤の管理員さんが常駐。
小型犬・猫の飼育も可能(細則あり)で、ペットと暮らせる環境も整えられています。
周辺にはスーパー、コンビニ、公園が徒歩10分圏内に揃い、武蔵小杉駅や川崎駅に向かうバス停もすぐ近くに。
平間駅からも徒歩5分という立地のため、利便性高く暮らしやすい住環境といえます。
かつて工場として日本の経済の一端を支えたこの場所は、今では「住みよい住環境を備えたマンション」として、多くの人の暮らしを支え続けています。
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<参考資料>
- 「中原(御幸)地区明細地図 昭和46年6月 追補正誤表付き」、経済地図社、1971
- 「川崎市中原区明細地図 昭和48年度版」、経済地図社、1973
- 「ゼンリン住宅地図神奈川県川崎市 3 中原区」、ゼンリン、2025
- 「未来に伝えるなかはらの歩み-中原区区政40周年記念写真集-」、川崎市中原区役所、2012
