こんにちは、タンジです^^
先日、「市ノ坪」の地形について記事を書いたのですが
今回は、
・地名の由来
・地域の歴史
という別の角度から、「市ノ坪」という地域にフォーカスを当ててみたいと思います🔍
🔽市ノ坪の地形についてまとめた記事はコチラ
「市ノ坪」という地名の由来について
「市ノ坪」という地名の由来については、古代律令制度の時代の条里制から来るもの、という説が有力なようです。
条里制では、1町(約109m)四方を1坪という単位で数え、6×6町の区画に「一ノ坪」から「三十六ノ坪」までの通し番号を打って管理していました。
この「一ノ坪」が「市ノ坪」の表記へと変化し、現在まで使われている
と考えられています。
現在の「市ノ坪」という町名ができるまで
現在の「中原区市ノ坪」という町名になるまでの流れを年表にすると、次のようになります。
1889年(明治22年)
市制町村制施行に伴い、今井村、市ノ坪村、苅宿村、木月村、井田村、北加瀬村が合併し、住吉村ができる。この時、「市ノ坪」は大字となる。
1925年(大正14年)
中原村と住吉村が合併し、中原町が誕生。その大字として使われるようになる。
1933年(昭和8年)
中原町が川崎市に編入し、中原町市ノ坪から、川崎市市ノ坪となる。
1972年(昭和47年)
川崎市が区制施工。中原区が誕生し、川崎市中原区市ノ坪という地名になる。
地域の様子の移り変わり
現在の「中原区市ノ坪」地域は、江戸時代に存在した「市ノ坪村」とほぼ一致しています。
この地域の南西には二ヶ領用水がありますが、江戸時代当時は、これに加えて「市ノ坪川」と呼ばれる用水も流れており、農村風景が広がっていたのだそうです(市ノ坪川は、1960年に暗渠になっています)。
市ノ坪では、大正中期から洋花や果物の栽培が盛んにおこなわれるようになり、戦時中は食糧増産のために野菜作りに切り替えて、農業がおこなわれていました。
多くの住宅が建ち並ぶ今の姿に変わり始めたのは、昭和30年代なかば頃。
この時期は、中原区全体でも個人住宅や社員寮が急増し、農村から商業・工業・住宅が入り混じる街へと変貌していった時期にあたります。
現在の市ノ坪地域は、かつて農村だったとは想像もつかないほど都市化が進んでいますが
二ヶ領用水沿いを歩く時に感じるのどかさは、当時の雰囲気の名残をのこしているのかな、と思ったりもします。

まとめ
今回は、「市ノ坪」という地名の由来や、地域の歴史について調べてみました。
古代の条里制に由来する地名が、今もこうして使われているなんて
なんとなくロマンを感じませんか?
中原区には他にもユニークな地名がたくさんあるので、また機会があったら、ほかの地名の由来についても調べてみたいと思います♫
【参考文献・URL等】
・「川崎地名辞典 上」、日本地名研究所編、川崎市、2004
・「川崎の町名 改訂版」、日本地名研究所著、川崎市出版、2024